日光道が整備される以前より、幸手は利根川水系による河川舟運と、鎌倉街道中道の人の往来で、交通の要衝として栄えていたとされる。特に中世では、古河公方の重臣・幸手一色氏との縁が深く、政治的・軍事的にも重要な場所であったことが窺われる。
江戸時代になり日光道が整備されると、一六一六(元和二)年に幕府より人馬継立を命ぜられ幸手宿となった。幸手宿は日光道のみならず、将軍家による日光社参の道である日光御成道との結節点でもあり、重要な地だったと考えられる。
宿駅としての幸手宿は、南から右馬之助町、久喜町、仲町、荒宿の4ヶ町より構成されており、開宿当初は久喜町、仲町の2町が宿の中心で、荒宿、右馬之助町が宿に組み込まれたと考えられている。
一八四三(天保十四)年の「日光道中宿村大概帳」によると、幸手宿の長さ585間(9町45間)、道幅6間、家数962軒、人数3,937人、本陣1軒、旅籠27軒とあり、城下町に併設された宿を除くと、千住宿、越ヶ谷宿に次ぐ日光道3番目の規模を誇った。